うちの実家の方針は しない、です。
幼い頃から母に延命治療はしないと言われ続けてきました。
そのため、父がもう自力で食べ物を飲み込めなくなったと聞いた時
あぁ、お別れの時がきたとすぐにわかりました。
管に繋がれて、ただ体が生きているだけ・・・延命治療のイメージ。
認知症その他病気で特別養護老人ホームに入ってから1年も経ってなかったかな。
目を開けていても見てるのか見えているのか、誰か何か認識できていない感じでずっと目を瞑って話しかけても無反応、話もできないし意思疎通もできない状態でした。
ただ、ばいばいと手を振ると「ばいばーい」と手を振ってくれる。
条件反射のようなものだけできた感じ。
「お父さん、食べ物を飲み込むことができなくなりました。」
私がその連絡を受けたのは、ちょうど転職して半年目の日で、有休がついたところ。
父よ、待っていてくれたのかと思った。
すぐに、家族のラインで何日くらいになるのか、という予想が繰り広げられました。
水も栄養も与えなくなって、人はどれくらいで亡くなるのか。
予想して帰省する日、有休と忌引きでスケジュールを立てました。
父が亡くなると言うのに、これが現実なのか・・・
長くても七日以内には・・・という情報が多かったかな。
その時にはじめて 延命治療しないっていうのは、餓死を待つことなのか、と思いました。
何かを口に入れても飲み込むことがもうできない、できたとしても正しく飲み込めず気管に入ったりして苦しい思いをする可能性が高い、最後にそんな思いさせたくない・・・
だから喉乾いているだろうなと思っても水を飲ませることもしない。
食べ物も、点滴もしない。
少し体を長く生かせることができるだけだから。
静かに、生命が尽きるのを待つだけ。
ろうそくの火が少しづつ小さくなっていく、まさにそんな感じでした。
頭ではわかっていたけれどいざ自分の父がそうなると、せめて点滴だけでも、など思ってしまうものなのだなと。
人間の尊厳云々置いといて、そうしたいと思ってしまうものなのだなとわかりました。
老衰は苦しくない、痛みは感じていない、緩やかに体が機能を停止してくだけ
そんな記事を見かけて心が救われたのを覚えています。
久々に帰省したけど、もちろん友達と飲みに行く気分にもなれず実家で家族でゆっくり過ごしました。
何度か病院から呼び出しがあり駆けつけ、大丈夫で帰り、実際最後の時は間に合わず・・・
子供達は間に合わなかったけど母だけは付き添えていたから良かったな。
認知症が進み、本当に徐々に、話せなくなり歩けなくなり目を開けなくなり・・・フェードアウトしていった感じ。
父との本当のお別れはもうとっくに終わっていたのかもしれないねと姉の言葉が印象的。
私の親友の父は亡くなる直前まで話していたからか、しばらくショックを受けたままの彼女を見ているのが辛かったな。
もう父が亡くなったと報告するような友人もいなくて静かに家族葬。
父は幸せだったのかな?
わからないけど、こう答えるだろうなってことは予想できる。
「楽しかったよ〜お前も楽しめよ!43歳?まだまだ〜」
「うす!まだまだ楽しみます!」
おわり。

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